子供の頃
1964年8月、福井県に生まれる。楽しく頼りがいのある祖父を筆頭とする7人に囲まれた家族のもとで育った。小中学校は、スポーツ万能、成績優秀として順風満帆な子供生活を送ってきた。というか、スポーツは遺伝、成績は優秀な仲間に囲まれていたことが大きな理由だったと今は思う。高校は、そんなグループから落ちこぼれワンランク落としての公立高校に入学した。ワンランク落とし志望校でもはなかったので、合格発表にすら行かなかった覚えがある。
小中学校の頃のグループメンバーは、ハイレベルの高校がそろう街中方面へ、私は反対に郊外方面の高校ということで、朝のJRの駅では逆のホームに立っていた。かわいそうに、私は次第に電車通学から自転車通学に代わって行った。片道1時間半の自転車通学をよく続けたもんだ。
そんな高校の中では、ランクを落としたためか常に優秀。そんな生温い高校生活を過ごした。クラスの学生も地元の中学からの生徒が8割を超えていたため、いじめこそなかったが”ぼっち”生活が多かった。そんな中でも、持ち前の明るさというか人を笑わせるのが好きな性格でもあったため、人並みの高校生活は送れた。しかし今のようなネットもない時代の田舎の郊外では情報量も乏しく、生温い高校生活を送っていたのもあり、大学進学は浪人となった。大学進学は、今も昔も個人の学力と情報収集力と運だ。
花の大学生活と東京!
浪人とはなったが、無事大学に進学。付属高校もある都内の有名私立大学に入学した。入学式は日本武道館で行われるようなマンモス校だった。ひとり生活はやっぱりさみしいところもあったが、日本の首都である東京に来れたことをうれしく思っていた。寂しさよりも初めてのことばかりで、毎日が新鮮であった。ビックマックを知ったのもこの頃であった。そしてはじめは授業に出席して、まじめに学生生活を送り出した。でもすぐに違和感が。なぜ浪人までして入ったのに付属から上がってきた程度の低い生徒に囲まれて学ぶのか?ある種のみじめさも感じた。だがここで高校時代のボッチ生活が役に立つとは思わなかった。ひとりでなんでも考えて行動することが好きなことが約にたった。
- 初めて一人暮らしをする
- 初めてのバイト先を見つける
- サークルも入らないのに、多くの先輩と親しくなる
- ひとりで留学にいく
- ひとりで大使館巡りをして、英会話の話し相手を探す
- ひとりで海外旅行に出かける
などなど、怖いもの知らずによくやったもんだ。特に、英語は受験科目で一番苦ってだったくせに、今思えば色んなところに行った。
今まで訪れたところ
- アジア ・・・ 香港(中国返還前)、中国(北京)、台湾、韓国
- アメリカ ・・・ ロスアンジェルス、サンディエゴ、ニューヨーク、ボストン
- ヨーロッパ ・・・ イギリス、ドイツ、スイス、フランス
- オセアニア ・・・ オーストラリア(パース)、ニュージーランド(クライストチャーチからオークランドへ(レンターカーで縦断))
と何かと充実した大学生活を送ることができた。いくつかの恋愛もし恋人もいたりと楽しい大学生活であった。
社会人生活(入社から最初のキャリア)
大学卒業時はバブル真っ最中で就職先に困ることはなかったが、田舎の長男だったので、親の切なる願いもあり地元に戻って就職することとした。今思えば、就活などはなく東京に残るか地元に戻るかの選択ぐらいで、後は企業のほうから連絡が来るような完全なる売り手市場であった。最終的に、地元で上場している商事会社に入社した。最終入社面談では私だけ特別扱いなのか、なぜか中野サンプラザでステーキを昼食にごちそうしてくれたことを今でも覚えている。3月最終週より新入社員研修が始まった。たまたま、その新人研修で大型契約を取ってきてしまったことで、一目置かれた新入社員になってしまい複数の部署からオファがあったと後で人事部より聞いたが、最終的には自分の希望のシステム開発の部署に配属となった。でも、大型契約にしろ、配属先にしろ人生なんて”運”も本当に大きく影響するものである。
地元にとどまらず県外・海外進出を狙う会社の考えの上場企業ということで、、東京や関東での土地勘もつ私がちょうど都合がよかったのか、入社してまもなく東京支社に転勤となった。久しぶりの東京ということで、慣れた土地勘を頼りに、営業職を満喫した。
そのうち全国・海外展開をしている企業と付き合うこととなり、15年足らずの間に日本全国、アメリカ、台湾等と飛び回る営業マン時代を過ごした。今思えば体力的にきつい時代であったが、当時は若さがあった。そして、毎回日本全国の初めてのところに訪れて、色んな人と出会い、ご当地のおいしいものも食べれるということが性格にあったこともあり乗り切れたのだと思う。仕事面も順調で技術的キャリアアップも一番伸びたころだと思う。このキャリアを評価してもらい社内では、中間管理職となっていくわけだが・・・。
そんなある日、結婚したての妻と新聞にたまたま載っていた国交省が主催する「道の日」イベントに出かけた。少し強引かもしれないが、私はここから始まったと考えている。間もなく当時の日本道路公団やその子会社と付き合う方向に、業務内容が変化していくこととなるのである。
社会人生活(高速道路)
東京というか都会はいいところである。人口が多いからだろうが週末のあちらこちらでいろんなイベントや集まりが開催されている。新築1戸建てやマンションの説明会などは当たり前、新コマーシャル放送前の有料アンケート等々、田舎とはちょっと違ってテレビ・ラジオ・新聞などと自分の生活が一体化しているようなイベントに参加できたり、下手すればイベントに参加するだけで簡単なアルバイトができたりもする。
私も、たまたま読んでいた新聞で「道の日」企画のイベント記事をみて、都内に出るきっかけを作った。確か夏頃で、場所は横浜だったと思う。横浜から都内の霞が関に出かけていき、案内されたスペースに連れていかれると一般人はごく少数で、国交省の役人の思われるスーツ姿の集まりだった。場違いというか、権力のにおいがプンプンする嫌な感じの会合であった。それから間もなく、会社のほうから高速道路関連の業務に責任者としてついてくれという話がやってきた。今でも、「道の日」のイベントに出席したのは偶然じゃないと思っている。中間管理職として大きな転勤が訪れた。中間管理職としての職務は、同期の中では早いほうであったが大変でもあった。新天地である高速道路関連の業務はそれなりにやりがいがあった。中間管理職業務に慣れ数年たったころ、小泉元首相が行った道路公団改革の波をもろに受けた。高速道路会社と名前を変えた元道路公団の高飛車なみなし公務員と日々話す機会が増えた。時には恫喝され、時には頭をペコペコしながらの業務は、精神的に追い詰められ、転職を考えたりしたのはこの時が初めてであった。会社は違えど今でいうパワハラオンパレードの営業マン時代をこれまた15年ほど過ごした。
社会人生活(反省と後悔)
この時期に、やっぱり転職や第二の人生をじっくり考えておくべきだった。しかし、当時はまだ転職がそれほどメジャーでもなく、長男で地元を離れられないということを理由に、ズルズルと日々の業務が流れていった。逆に私をリラックスさせてくれる出来事もあった。子供が生まれた。自分では薄々感じていたが、私は子煩悩なのである。赤ちゃんでも、保育・幼稚園生、小学生でも毎日が楽しかった。遊ぶ時間、一緒に食事する時間、リアクションを楽しんでいる時間、旅行・お出かけする時間すべてが楽しかった。そして、子供のことを考え実家から通える部署へ転勤願を出し、今の業務である社会福祉の部署に配属してもらった。営業マンとして長年勤めてきたものとしては、残業がほとんどなく完全内勤のこの業務に慣れるのに最初戸惑いもあったが、今では本当に体力的には楽な勤務である。特に50歳を超えた体にはもう少し負担があったほうが体力維持的にいいのではないかと思うくらい体力的負荷はない。ところが、子供が中学生になってから「不登校生」となり、子煩悩の私としてはこのことを理由に今まで他人事と思っていた病院に通うこととなったのである。
社会人生活(社会福祉と不登校)
あれは子供が中学1年のGW明けの時である。突然子供が学校に行けなくなった。最初の1週間は、昭和のお父さん、無理やり子供を学校に行かせようとしたり連れて行ったりしたが、そのうち行かないことを受け入れるようにした。それからというもの、子供の頃はスポーツ万能で、運動神経・体力的には自信があったくらいの私が、心療内科に通うこととなった。学生時代のボッチ時代からなにかと独学が好きな私は、公的機関の研修・セミナーの受講、親の会、不登校の書籍、ネット記事、youtube動画などあらゆるものに手を出し、いろんな事を試みてきたが結局我が息子は、不登校のまま中学を卒業することとなりそうだ。担任の先生からは、「出席率、学力の面で行ける高校は県内にはありません」と言われ、中卒か通信高校への進学の2者択一となった。私も心身ともに疲れた。今までの人生、小さいことから大きな問題まで、独学で自己解決してきたつもりであるが唯一どうしようもない問題にぶつかった感じである。ここ2年間程度は、十分悩んできた。今まで休んだことのない会社も療養という形で3ヶ月も休んでしまった。子供も自分ももう破滅的だとつい最近まで悩みに悩んできた・・・。
社会人生活(問題解決)
息子がほぼ通信制高校に決まった12月、暮れの押し迫ったころ息子と妻と3人でお出かけをした。楽しい時間をのつもりだったが、息子はスマホをずっと見ている。最初は、男だし思春期だし・・・、といつものように自分の心を抑えつつ対応していた。家に帰って家族の会話をと思っていた時にも息子はスマホを見ているので、親子喧嘩となった。その時、私に何かのスイッチがはいった。我が子とはいえ子供は別人格。中卒になろうとも私には関係のない子供自身の問題。未成年期間に犯罪者となり保護者としての責任問題やお金の問題が発生したときは親の立場として出番はあるかもしれないが、それら以外は私の問題ではない。アドラーの「課題の分離」ではないが、我が子を我が子と思わなくなったら一気に冷めた。そして昔の自分に戻れた気がしてきた。”見棄てた”わけではないが、まっ見棄てることはできないだろうが心理的に”見棄てた”ことで、本来の自分を取り戻すことができた気がする。
現在、第2の人生の準備とスタート
本来の自分を取り戻したことで真っ先に頭に浮かんできたのが、60歳、還暦、会社の定年であった。そうだ、第二の人生の準備を早くやって楽しもう!我が子よ、申し訳ない!もう、きみに構ってる時間はない。私の人生も後20年前後。自分の人生に没頭させていただくよ。
とりあえず今思うこと。
・ガジェットやキャンプなどにつぎ込む金銭的余裕
・社会人最初の頃に訪れた日本や世界にもう一度訪れてみよう
・「孤独のグルメ」よろしく、日本全国ふらっと外食してみたい
・資産形成というよりはマネーゲームとしての株や為替の取引をしてみたい
ボッチ独学の人生の延長線上でやりたいことはまだまだあると思ったのである。
その記録と情報収集を兼ねてと思ってやりだしたのがこのブログです。特に何かに特化したブログではありません。しいて言えば、普通の田舎の長男坊が60の還暦を迎えるにあたり、新しく何かに興味を持ち、何をして第2の人生を楽しんでいくかのブログです。貯金も少し、借金もまあまああって、住宅ローンだけは終わったという普通のサラリーマンが作ったブログ。私は「ごく普通」の人生を歩んできた人間でしょう。少しパソコン好きな特に何も資格もない普通のおじさんです。